台湾の南の島・澎湖島(ぼうことう)情報

台湾の南の小島・澎湖島の自然や文化・人情・イベント・見どころなどを現地からリポートします。

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◎o.s:
ここは日本の九州、福岡空港です。
出発を待つのは
今年88歲の波佐義明さんとその弟です。
波佐さんたちは台湾に向けて出発し、
20歲の時に駐在した澎湖望安を再訪しようとしています。
第二次大戦の末期だった当時、
波佐さんは特攻隊員でした。

◎o.s:
「震洋」は、この特攻隊の名称です。
「望安」は数十年来、彼らが忘れることのなかった島です。

◎日語:(唸明信片)
拝啓。お手紙ありがとうございました。
その後、お前には元気でいるとの由、
何よりのことと存じます。
菜の花も咲いているとのこと、
故郷の田畑が思い出されます。
特攻隊に続いているとのこと、
兄も心強く感ずる。
元気でご奉公する日を待つ

【島の烽煙—震洋特攻隊の歲月と足跡】

◎o.s:
波佐義明さん、1923年生まれ
1944年に特攻隊員として
澎湖望安に駐在、
第24震洋特攻隊の所属でした。
終戦から四十数年後、
望安に駐在した当時の記憶を
「冬の残紅」という本にまとめましたが、
これが震洋特攻隊の足跡をたどる
重要な手がかりの一つとなっています。

◎波佐義明:
最初はですね、
全然特攻隊だなんて分からなかったのです。下士官が
武道場に
集まるようにと廊下を走り回ったんです。
司令長官の大佐が立って、
実はこういう兵器ができた、
それに搭乗するのはお前たちしかいない
入るものは配る紙にマルを書いて出せ
ということだった。我々は
何の兵器かなとと思ったんです。
兵器そのものを知らないから
その兵器はどんなものかと思いながら
不思議に思い
ながら隣近所を見たのです。
そうすると全員マルを書いているんですね。
全部自分たちで
熱意があるやつは二重マルです。
私はどうしようかなと思ってね
おれも書こうか、どうしようかと思って、
おれも書こうと思って二重マルを書いた
そして出したんです

◎o.s:
第二次世界大戦の末期、
神風特攻隊の奇襲を経て、
日本は東南アジアの戦線に対して
より深い認識を持つようになりました。
南洋への足がかりとしてだけでなく、
台湾の特殊な地理的ポジションを通じて、
連合軍を牽制しようとしたのです。

0515
◎楊仁江:
日本は真珠湾を奇襲し、
空前の勝利を収めました。
その後、積極的に
南方に進出して、
太平洋の多くの島を
占領しました。

このような状況のもと、
台湾は当時において、
大変重要な中継点になりました。

澎湖は、
台湾海峡の間にあって、台湾と中国大陸の中央に位置しているん
です。
ここは
明朝の時期から、
いわゆる
オランダやスペインがやって来た時期に、
すでに重要な軍事拠点となっていたのです。


◎o.s:
建築師の楊仁江さんは、
長年古跡の修復や復興に携わっており、
澎湖の人文歴史や
日本の第二次世界大戦当時の布陣についても
研究を積み重ねてきました。

◎楊仁江:
ミッドウエーの海戦の後、
日本軍を取り巻く戦局が暗転しました。
南方で米軍の攻勢を受けるようになり、
もし米軍が北に向かうとすれば、
台湾の通過が最重要ポイントになる。
もし台湾をしっかりと
防御する戦略がなければ、
日本本国に大きな脅威をもたらすと
と考えるようになりました。

◎o.s:
このため、
1944年暮れに
震洋特攻隊が正式に編成されました。
爆薬を積んだボートで
敵の艦艇に高速で体当たりしようというものでした。
基地は日本、朝鮮、東南アジア、
当時日本の植民地だった台湾に分布し、
台湾本島の西部海岸、
および澎湖で
続々とその基地跡が見つかっています。
そのうち、澎湖西嶼の東鼻頭基地と
望安の鴛鴦窟は、
当時の面影を比較的よく留めています。
もっとも
戦争が終わるまで、
震洋特攻隊はフィリピンと沖縄で、それぞれ一つずつ
敵艦を撃沈した記録が残るだけです。
台湾の部隊に、
出撃の機会はありませんでした。



◎陳英俊(現場解説):
いまの場所、
よく見えましたか。
ここの全ての施設には、
兵舎と厨房、トイレ、浴室が含まれ、
いずれもこの位置にありました。

◎o.s:
今日、これら海岸に隠れ、
港湾を遠く望む洞穴が、
あの時代の歴史について
語りかけてきます。

2011年、
国史館主催の西瀛海洋文化研習現地調査は、
震洋特攻隊をテーマとし、
地元の郷土史研究家の
陳英俊先生の案内のもと、
西嶼の東鼻頭の震洋基地をたずねました。

◎陳英俊(現場解説):
この左側のここですが、
これが人員の行くところです。
もし震洋艇をここに置くとすれば、
ここにもレールがあります。
レールがあるのです。
そして、これを人が押してゆきます。
ここやこの辺はコンクリートを使って、固めてゆきました。
皆さん、見てください。
どうして西嶼の東鼻島の格納壕が
今日まで保存されてきたのでしょうか。
それはここの岩石が
玄武岩であったためです。
玄武岩はとても硬いのです。


◎o.s:
震洋特攻隊の歴史を追い求める一人に、
望安出身で
幼少から日本軍に関する伝説を聞き育った
曽文明さんがいます。


◎曽文明:
見たところ元のままです。どこも変わっていません。
あそこの円形の入り口ですが、
あの洞穴の口はああいう形状です。
光を通す作用があったのかもしれません。
光を通したのかもしれません。
こちら側は
山全体の地形がわりと高いので、
このようにできたのでしょう。

◎o.s:
この西嶼に位置する基地の遺跡は、
現在でも軍事管制区です。
曽文明さんも
初めてここを見ることができました。
これまで推測してきた情景と
実際の現場との違いがあるようです。

◎曽文明:
こうではなかったはずです。
もし幅がこれだけならば、
震洋艇は入れなかったはずです。
船が入ってくる時、
後方の両側で人が押さねばなりません。
やはり誰かが押したのです。
◎曽文明(研習營演講現場):
いま振り返ってみますと、
ほんとうにこの
「鴛鴦窟」のことに気がついたのは、
あれは何だったんだろうと子供心に感じた疑問からなんです。

小学校の遠足で鴛鴦窟に行き、
先生が二つの大きな防空用の
洞穴を見せてくれました。
それから
数十年経って初めて知ったのですが、大きな防空壕だと思っていた
あの二つの洞穴こそが、鴛鴦窟であったのです。
お年寄りたちから、幾度となく日本統治時代に山を掘って鴛鴦窟を作った話を聞いていました。
あの当時はいずれも徴用されたので、
みんなとてもよく覚えていました。
印象が深いは、
苦痛を伴う思い出でもあったからです。

この洞穴の規模はとても大きく、
一般には12の洞穴が掘られ、そして12の洞穴の幾つかは、奥で通じていると言われていました。

◎曽文明:
日本人が大人数を動員して掘ったものです。
あのころは特攻隊が何なのか
全く知りませんでした。
ただお年寄りから
話を聞いただけでした。
お年寄りも観察して知ったのでしょう。「決死隊」と言っていました。
決死隊、特攻隊のことです。

鴛鴦窟は、
基本的に河と谷の地形をしています。
この場所には高低の起伏があります。
一般的に言って、
北側には丘があるので、
北山と呼んでいます。
南側にも丘があります。
西側にも丘があります。
基本的にはこの三つの小さな丘があり、
中間がとても低いという地形です。

◎o.s:
若松禄郎さんは
1945年に望安に駐在した
第24震洋隊の隊長です。
当時、馬公と望安の一帯で、
基地の設置に適した場所を探しました。
現在、
当時隊長を務めた若松禄郎さんは、
当時の観点をはっきりと覚えている
最後の証人かもしれません。

◎ 若松禄郎:
ここは漁港ですね。
いちばん広いところで1.5キロメートル
南北で2キロメートル
(望安は)そのような小さな島です。

◎楊仁江:
震洋の基地を選ぶに当たって、
いくつかの重要な条件がありました。
一つは山を控えていること、
もう一つは海に面していることです。
つまり、
後方に高い山があると、
洞穴を掘ることができます。
「格納壕」と呼ばれた震洋艇の保管場所は、
このような洞穴でした。
同時に緩やかな坂があり、
そこにレールを敷くことで、
震洋艇を
速やかに海に送り出せるからです。

◎o.s:
若松部隊の所有した震洋艇は、
長さおよそ五メートルの
合板製で、
自動車用のエンジンを搭載し、
250キログラムの爆薬を積める、
1人乗りでした。
その目的はすぐさま出撃して、高速で
敵艦に激突し、
敵艦の侵入と上陸を阻止することでした。

◎若松禄郎:
これは高さ20メートルだったか
14メートルという頭もあるんです。
ですからどこをどうと言うのは難しい。

この上は通過させて
風通しをよくする
平行には進んでいないはずですよ
少し上向いて
同じ穴が繋がると言う気持ちだけれど
なかなかうまくいかないのが現状でしてね。

◎ o.s:
曽文明さんは退職した中学校の教師で、
実家は望安の中社村です。
長年、時間があると
望安に戻り、
高齢者を訪ねては
鴛鴦窟基地の歴史を研究してきました。
曽さんのお母さんも、
「鴛鴦窟掘り」に徴用された一人でした。
幼いころの記憶が
曽さんを突き動かし、
震洋特攻隊を台湾の
歴史の彼方から呼び戻すのです。

◎曽文明與許吉川(現場交談)
今日は洞穴の入り口に行きます。
洞穴の入り口はいま整備中です。
印象では
いくつ洞穴がありましたか。
分からないなあ。
分かりませんか。
12の洞穴があったという人もいます。
12ですか。
北山に8つ
南山に4つという人もいます。

◎葉成仁(現場描述)
鴛鴦窟はかつて、
日本の海軍陸戦隊が
防空壕(格納壕)を掘っていたところです。
20歲以上、40歲・・・いや45歳以下の者は徴用されて仕事に行った。
男も女もみんな行ったが、
報酬はなかった。

◎曽文明與彭王碧金:(現場訪談)
(鴛鴦窟は誰の代わりに行きましたか)
母の代わりに行きました。
二つの穴を掘りました。
第9の洞穴は10日、
第11の洞穴は10日掘りました。
一期の仕事は10日間でした。
すべての村が行きましたか?
どこの村にも課せられた。
全ての村を
順番で回しました。
10日働くと
休憩するのです。10日働くと
他の人に代わるのです。

◎葉成仁:
聞くところでは、穴をまっすぐ掘り進め、
大きな木で洞窟の中側を支えながら、
前進した。

◎曽文明與彭王碧金:(現場訪談)
何尺かの深さを掘ると
大きな釘を使いました。
釘には鈎が付いていて、釘を打ち込んでから、四角い木材を鈎に
押し込んで、
それで一段としました。
そうしないと危険です。
洞穴の中が崩れたりすると
すべてが埋まってしまいます。
男の人がスコップを使い,
私たち女の人は土を運び出しました。
草の袋に土をつめて
紐で縛って
一袋ずつ運び出しました。

◎葉成仁:
後に洞穴の中の木は全部腐ってしまい、
全て崩れてしまった。
いくつもの洞穴が崩れました。
◎o.s:
長年にわたり、
曽文明さんは老人たちを訪ねながら、
次第に当時の「鴛鴦窟掘り」の歴史を
復元してきました。
なかでも最も重要だったのが
1996年に、
実際に鴛鴦窟掘りの工程に参与した
陳生扁さんの話を聞けたことです。
残念ながら陳さんは
すでに亡くなりました。


◎(曽文明所收集錄音資料)陳生扁:
東側のあれは、
あの洞穴はもう崩れてしまった。
東側のあの洞穴はないんだ。
東側のあれは。
(鴛鴦窟掘りのことをたずねると)
「石匠(石屋さん)」として派遣され、
13の洞穴を全部処理した。
総監督としてまわったんだ。
仕事に行くと、米をくれた。
一日で一斤の米だ。
あといくらだったか、忘れてしまった。
第二の洞穴で橋本(日本人の姓)が大きな石があるという。
どう処理しようか見に行った。
当日、石を運ぶのはみんな女性だった。
どうしようかと座り込んで思案していた。
だいいよ、この石は俺が始末すると言って
石を粉砕させたんだ。
(一つの洞穴を一人の隊員が見ていたのか)
二人だ。二人の軍人が交代で見張った。
一人が午前、もう一人が午後の受け持ちだ。

◎(日語)波佐【冬之殘紅】的回憶:
「昼は設営に忙殺され
夜は基地の警戒を交替で
基地隊員と任務についていた
時は正確なリズムを刻み
間違いなく過ぎていった
敵機の来襲があった
ある廟での昼食後の一服の休憩中であった
戦場の生活のなかでなければ
交わすはずのない会話であった
敵に対する復讐の願望が
しつこく心を捉え
その後もこだわり続けた

◎彭王碧金:
戦時中の生活は苦しくて、
厳格に管制されていました。
もし船が見つかれば、
掃射され、爆弾を投げつけられる。
馬公に行って食料を運ぶにしても、
そんな方法もなかった。

◎許吉川:
昔は怖いもの知らずだった。
飛行機がここに飛んで来るんだ。
B29だ、B29、
この辺に来て
バリバリバリ、バンバンバン…
(機銃掃射ですか)
そう、機銃掃射だ。
あの時は山の頂上まで駆けていって、
衛生所の宿舍、
古い方に行った。
山の上には大きな木が多く、
あそこに行って飛行機を見ていた。
飛行機の一群は全部白でした。
太陽に反射してすべてが白く見えた。
馬公のほうに飛んで行って
まもなく
馬公のあたりから煙が上がった。
オイルタンクが爆撃されたのでしょう。

◎葉成仁:
震洋艇は、
むかしはプラスチックがなかったから、
ベニヤ板で作ったと聞きました。
操縦している時、
飛行機が飛んでいるような、
ウオーンウオーンといった音がしたので、
また飛行機が飛んできて
機銃掃射されると思い怖かった。
◎波佐義明:
私は一番艇だった。
一番艇が最初に行って、
その後を二番艇、三番艇、四番艇と行く
部隊長が電灯で呼ぶわけです
昼は旗ですよ、赤い旗でね。
部隊長はこうやってみたり降ろしてみたり
そうするとダーッと前に進む
そして一列に並ぶんです。
それから二番艇に合図すると
バーッとふかすのですね、エンジンを
そして向こうにぶつかるために、
ただぶつかるだけですよ

◎o.s:
しかしその時、
彼らは戦争が既に終わっている事を
知りませんでした。
◎o.s:
海辺の崩れた洞穴には、
奥深い物語を秘めていました。
鴛鴦窟歩道を設計した建築師の楊仁江さんは、
基地の図面を読み解く中で、
かなり苦労したと言います。

◎楊仁江:
航空写真からこの画像を探し出しました。
この緑色の濃い部分がギンネムノキの密生している所です。
私はもう一つの方式で、
この山の上に行って、
洞窟を発見したのです。
ここは最も大きく崩れた場所です。
この上にも洞窟があります。
あそこのいくつかの洞窟は、
前に押すとちょうどいいのです。
出口のこのあたりは、
上から見ると、
とても深くくぼんだ穴が見えます。
つまり、
格納壕全体が、
この方式で作られているのです。
ついに見つけたのです。
図面と少し違う位置でしたが、
この格納壕の特徵を
備えた坑洞でした。
ここはすでに崩壊していたので、
入ることができず、
この外面を少し整理するに
留めました。

最後に重点といえば、
幸運にも生き残ったこと、
これが最も大切なのですが、
もし全て存在しない場合、
誰もその感覚を語ることはできません。
なぜなら彼らが存在したため、
戦争の様々な場面を
リアルに再現することができるのです。
耳や目ではっきりと見聞きすることで、
当時の模様をはっきりと認識できるのです。
これらのことをいかにして
鴛鴦窟に反映させるか
これはとても大切なことです。
戦争の残酷さを伝えるとともに、
それだけでなく
観光的な価値と意義も具えている、
とても挑戦的な
プロジェクトです。


◎日語(【冬之殘紅】):
「内地から我々と共に
風雪と吼える波濤の海峡を渡り
空と海から眼を逃れて
我々と旅を続けて、
台湾、馬公と放浪の末の
終焉の地にたどり着いた特攻艇ではあった
八罩島(望安)の束の間の休息に
大きな歴史の流れの中に
前に致し方なく、瞬時に破壊していった」
「艇体は海辺で積み重ねて、
航空燃料をまいて野火にした。
やがて炎の中に在りし日の映像が現れた
瞼の裏に揺れる光のあやは、
哀愁を伴い純粋な影像であった」
「このような地味な運命で消え去ることは
誰が想像したであろうか。
空虚な後味であった」

◎ o.s:
彼らはいずれも死線を越えてきました。
住民であれ、特攻隊員であれ、
死のふちから生き延びてきたのです。

◎波佐義明:
やっぱり、戦地に行ってないからです。
そういう危ないことしていないでしょう。
特攻隊は名前だけであって、
だから死を考えたことは最初だけであって
後は何も考えてないんですよ。
今考えると特攻隊になったということは
一つの思い出ですね。

◎ o.s:
終戦直後の日本と台湾は、
ともに悲惨な境遇にありました。
人々は重苦しい記憶と
苦しい生活とともに、遠く離れた二つの地で、
青春の日を過ごした記憶を抱き続けました。
彼らにとって澎湖は、
郷愁と記憶の土地となりました。
◎o.s:
長年、望安鴛鴦窟の
震洋隊の歴史を追い続けた
曽文明さんが、
ここで暮らした特攻隊員・波佐義明さんと
面会を果たしました。
この世の桃源郷のようなこの島には、
二人の記憶がつまっています。


◎(波佐與曽文明見面、在鴛鴦窟現場)
ここはね、まだずっと下ですよ。
こんなに高くない。
ずっと下ですよ。
向こうと同じくらいですよ。
高さはね。


◎ o.s:
ここは重い記憶とともに
歴史を伝える島。
多くの人々がここに物語を残し、
生命を通して歴史を書き残しました。
今日、
旅行客が楽しそうに歩きながら、思いを馳せています。
青い海と空、星の移ろい、巡る四季
歳月は過ぎゆくとも、変わらないのはあの戦争に明け暮れた日々であり、語り告げられた遺跡なのです。

◎ o.s:
前人の歩んだ道を、
後人も歩みます。
この島の物語も、
カラフルな彩りのなか、
引き続き伝えられてゆくことでしょう。

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